まだ見ぬ君に 61.12.08

気付きのカケラ、と健忘録

絶望と喪失

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絶望と絶望的ではニュアンスがかなり違う。「的」の一字に灯る希望が0ではないと支えてくれる。対する喪失は希望なく、ただただ受入よと迫るばかり。今までの当たり前がどれほど手を伸ばそうと、思おうとそこに存在しない。恐怖より先の戸惑い。
昨日両方を味わったと言ったら、ほとんどの人は大袈裟だと思うだろうなぁ。

 気にあり度1、2番目の万年筆2本とシャープペンシルの計3本をペンケースごと失くした。気づいたのはコーヒーショップを出て数時間後で、電話をかけたが無い。歩いた道にも無かった。数度往復しても見つからない。

失くした万年筆はいずれも思い入れたっぷりでペン先の相性も群を抜く。シャープペンシルは多くの仕事を一緒にしてきたペン。どれも今は作られておらず中古市場でも見かけない。仮に探し続けたところで、軸模様の同じ物は存在しない。それに私が時を同じく過ごしたペンではない。価格は関係なく一緒にいた”時間”の中の想いの問題になる。
何も考えられず残るのは喪失感だけで、人以外に初めて喪失感を知ったと思うほどだった。大切な道具は多数あるけれど、同様の感情を抱いた物は他に浮かばない。強いて言えば長く使う時計がそうかもしれないが、ペンほどではない。

 辛さの多くは自身の不注意だから、感情の持って行き場がない。物に気持ちを宿しているのは投影かもしれないが、ペン一本に救われたという思いはある。それが忽然と手元から消えて、二度と触れも見ることもできない。どう考えてもそれは嘘だとしか思えない。無くなるなんてあり得ないでしょうと。無い生活自体が想像できない。失うことを予見している場合はなんとか対応できる。覚悟していく時間の中での内省が救いにもなり得る。しかし、なんの覚悟も無しに失うとおろおろするばかりだ。たかが物だと思い込もうとしても上手くいかなかった。

 一日過ぎても落とした可能性の店からは連絡はなく、喪失感との折り合いも付きはしない。それでも店にまた電話を掛けてしまった。これで2度目だからいい迷惑だなぁと思いながら、次は警察かぁと考えつつ、あるはずもないのに「ありませんかと」尋ねる間抜けさ。

あった。よく分からないがペン3本にペンケースがあった。
手元に戻った。
今、思い掛けず手元にあるが実感はまるでない。なんであるの、これは本物?