まだ見ぬ君に 61.12.08

気付きのカケラ、と健忘録

広島と長崎、それぞれの実相

f:id:sorari1701d:20200811093229j:plain

昨日の毎日新聞「首相の被爆地あいさつ「文面が酷似」と怒りの声 官邸HP掲載の全文と同じ構成・表現」の記事を読みながら主張とは違うことを感じていた。
https://mainichi.jp/articles/20200810/k00/00m/010/072000c
簡単に触れると、官邸Webサイトで確認したが広島と長崎の二つの文章はともに約1100文字ほどで、表現が違うのは下記の約100文字1センテンスになる。他は同じ内容。

以下引用

→75年前の今日、一木一草もない焦土と化したこの街が、市民の皆様の御努力によりこのように美しく復興を遂げたことに、私たちは改めて、乗り越えられない試練はないこと、そして、平和の尊さを強く感じる次第です。
→75年前、一発の原子爆弾により廃墟(はいきょ)と化しながらも、先人たちの努力によって見事に復興を遂げたこの美しい街を前にした時、現在の試練を乗り越える決意を新たにするとともに、改めて平和の尊さに思いを致しています。

引用ここまで。だいぶ前の話になるがコピペの話なども話題になるなど、この件については書かない。記事を読んで思ったのは別のことだ。

 

私は広島と長崎にそれぞれに5回訪問している。広島出身の友人が3名おり、一人からは辛い話を聞いている。爆弾のタイプの違いや威力、人々への影響などを見聞きしている。知っていると言うには謙虚さが足りないと思えてしまう。僅かを知るに過ぎない。
理屈ではなく感情面が先に立ってしまい理解はできずにいるようにも思う。

デリケートな問題だけれど正直に話せば、原水禁の活動や「核実験反対」、「核兵器反対」は知っているし僅かだが関わったこともある。それでも本当の意味で、そう皆が切実に伝えようとしている「実相」として捉えたならば二つの都市である広島と長崎の違いを私は分かっていない。ノーモア広島、ノーモア長崎は被爆都市として同列視させているようにも今回思えた。どうしても核について考えると一体になってしまうのはなぜだろう。今回、私は実相とは遠いところにいるのだと改めて思い知らされた。
「お前は広島と長崎、それぞれの実相を知っているのか、知っているなら広島と長崎の人達に何と話すのだ」そう問われた時、私はこの強い問いの答えをまだ持っていない。